企業における予防接種の考え方
~科学的な感染症対策が求められる時代~

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大室産業医事務所 代表 産業医
大室 正志 先生

産業医科大学医学部医学科を卒業、専門は産業医学実務。ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社で統括産業医を務めた後、医療法人社団同友会産業医室を経て現職。これまでに約50社の産業医を経験し、現在日系大手企業や外資系企業、ベンチャー企業など、約30社の産業医業務を務める。

昨今の新型コロナウイルスの流行や、2009年の新型インフルエンザの流行は、感染症が企業にもたらすさまざまなリスクを浮き彫りにしてきました。企業の感染症対策に対する考え方は、いま大きな転換点を迎えています。産業医としてこれまで約50社の健康管理を担当されてきた大室正志先生に、予防接種社内制度の考え方についてお伺いしました。

経営リスクとして認識されてきた感染症

これまで感染症への対策が企業で注目されるようになってきた背景には、米国などで従業員への健康に関する費用対効果の研究が進み、従業員が不健康になることによって発生したコストが意識されるようになった1)ことがあります。また、新型コロナウイルスでも問題となったように、過去、感染症の集団発生が風評被害などに発展した事例もあり2)、感染症が経営リスクにつながることが認識されるようになったことなどもあります。

ワクチンは科学的根拠のある感染症対策

企業が感染症対策を検討する際、手洗いの励行、マスクの着用、ソーシャルディスタンスなどさまざまな対策がありますが、産業医としてまず推奨するのはワクチンの予防接種です。なぜなら、ワクチン接種は感染症の具体的な予防効果が科学的に証明されているためです。例えば麻しん含有ワクチン、風しん含有ワクチン(例えば、麻しん風しん混合(MR)ワクチン)を打てば、約95%程度の人がそれぞれの免疫を獲得できます3)4)
そして、予防接種を企業として推進することは、「企業と従業員を守るための感染症対策として、科学的根拠のある方法に対し、適切に投資をしています」という社内外へのアピールにもなると考えています。

アフターコロナで様変わりした予防接種の考え方

従業員の予防接種を助成する制度などを導入することについて、「うちはまだ…」と言っている企業は多いと思います。ところが、2020年に新型コロナウイルスのパンデミックを経て予防接種に科学的な根拠があることや、その効果が広く認識されるようになり、予防接種に対する世間の評価は変わってきているように感じています。
いま企業の感染症対策は転換点に立っているように思います。どういうことかと言いますと、パンデミック以前に「うちはまだ」と言っていたことと、パンデミック以降に「うちはまだ」と言っているのとでは、少々意味合いが異なって聞こえてしまうようになる可能性があるということです。
例えば、インフルエンザも新型コロナウイルスも、基礎疾患のある方では重症化しやすいことが明らかになっています5)6)。しかし、この基礎疾患のひとつである心血管疾患(心臓病や脳卒中など、心臓と血管の病気)のリスクが高い方では、インフルエンザワクチンを接種すると心血管疾患の起きるリスクが低下することが報告されています8)。また心血管疾患のある方では、肺炎球菌ワクチンやインフルエンザワクチンなどの呼吸器系の病気に対するワクチンを接種することが、世界保健機関(WH O)などの主要な保健機関から推奨されています9)
新型コロナウイルスの世界的流行を経験した今後の「アフターコロナ」時代は、インフルエンザや肺炎球菌の予防接種に対して、以前のように「うちはまだ」と様子見の態度を取ること自体が一つの意味を生じ、ある種の姿勢表明と捉えられることにつながる可能性も否定できません。そうしたことも含め、企業は、自社の職種や従業員の年齢構成、女性が多い・男性が多い・年配の従業員が多いといった特徴など自社のリスクを勘案し、導入を検討していけばよいでしょう。

*心血管疾患のリスク因子:喫煙・高脂血症・高血圧・肥満・糖尿病など7)

副反応の責任は?

こういった状況を背景に、2020年は特に、さまざまな企業の衛生委員会で、事業所内接種を行う/行わないといった議論が交わされました。私が話をした担当者の中には、事業所内接種を推奨して、従業員に健康被害などが発生した場合、自分や企業が責任を問われるのではないかと、とても心配されている方もいらっしゃいました。
しかし、企業の担当者が予防接種を受ける従業員に問診したり注射したりするわけではありません。たとえ副反応が起きても、医療上の問題で企業の一担当者に責任を求められることにはなりませんので、安心して進めてくださいといつもお話しています。
その一方で、ワクチン接種はあくまでも各従業員の任意で行うものです。決して企業が強制するものではないため、従業員に「会社で強制的に接種させられた」といった印象を与えることにならないよう、細やかなコミュニケーションが必要となる可能性を頭の隅に置いておきましょう。

「予防接種を打つのは不安」という従業員には?

ワクチンにはメリットだけではなく、副反応等のデメリット(リスク)も存在します。
ワクチンの副反応等の問題に関しては、まず従業員へリスクをきちんと提示した上で、ワクチンにはこういうメリットがあります、だから、うちの企業では接種を推奨していますと企業の姿勢を打ち出すことが重要です。そして同時に、「予防接種は強制ではなく、接種は皆さんの自由です。ただ、副反応などに対して不安な方もいらっしゃることでしょう」と表明し、強制ではなく、選択の余地があることを伝えた上で、接種に不安がある方の意見をしっかりと受け止めましょう。従業員の「安全」と「安心」を両輪と考えることが大切です。
従業員が予防接種を受けることで集団免疫を獲得できるという「安全」の話は理屈で判断できます。論理的にも筋が通っています。しかし、「それでも不安です」と言われる方たちを論理の物差しで測り、彼らの不安の声を無視していては、会社はうまく回りません。
では、どうすればよいでしょうか。「不安だ」という人に対しては、企業として「相談に乗る」、と彼らの意思を受け入れ、接種する/しないに関わらず、その人たちをきちんとフォローすることが大切です。
例えば大震災の後に続出した放射能問題でも、同じような議論がありました。安心だという人・不安だという人はどちらもある程度いるものであって、企業としては両方を受け止めることが必要とされます。ワクチンに対する安全性やメリットの問題と、「不安」という感情論の両方をきちんと受け止める。メリットばかりを推奨して、リスクを重要視する人を排除するような考え方では、さまざまな人が働く職場がまとまらなくなってしまいます。

経営者の協力も不可欠

最後に、感染症対策を企業で推進させるためには、経営者が感染症対策にどの程度コミットしているかが鍵となります。部下は、常にトップをよく見ているものです。トップの本気は、全従業員に伝わります。企業で感染症対策の担当者になっているのなら、手始めにトップの意識を向かせる方策を検討するのも良い手ではないかと考えます。

参考文献

  • 1)Edington DW, Burton WN. Health and productivity. In: McCunney, RJ: A Practical Approach to Occupational and Environmental Medicine. Philadelphia: Lippincott Williams & Wilkins. 3rd ed. 2003:140-152.
  • 2)観光庁主催「感染症発生時における観光関連産業リスクマネジメント検討会(第1回)」資料
  • 3)厚生労働省 麻しんについて
  • 4)厚生労働省 風しんについて
  • 5)Cuadrado-Payán E. et al. Lancet 395(10236): E84; MAY 16, 2020
  • 6)厚生労働省 新型コロナウイルス感染症 COVID-19 診療の手引き 第4.1版 p. 12.
  • 7)厚生労働省 インフルエンザQ&A
  • 8)新型コロナウイルス感染症 COVID-19 診療の手引き 第3版 p. 10
  • 9)清野精彦. J Nippon Med Sch 2000; 67(3)
  • 10)Udell JA, et al. JAMA. 2013 Oct 23;310(16):1711-20
  • 11)日本循環器学会 新型コロナウイルスに対するQ&A(心臓病患者さん向け) 問12


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